贅沢貧乏『ミクスチュア』評
観る人によって違う答えが浮かび上がる現代群像劇
話の構成自体はとてもシンプルだ。舞台はどこかにあるヨガスタジオで、登場人物はそこでヨガをする五人と清掃員の二人、そして街に出没するという謎の野生動物二匹。
彼らがヨガスタジオで語る話や体験する出来事がタイル貼りの舞台で繰り広げられる。
このお芝居で作者はこれといった特定のテーマを押し付けてくることが一切ない。
逆に、さまざまなテーマが絡み合ってるからこそ成り立っているお芝居にも見える。
おそらく、観る人の視点によって、芝居はその色を自由に変えることだろう。
人間と動物の関係、在り方と捉える人もいるだろう。
人間として生きるとはどういうことか、人間は動物なのか違うのか、という問題で観る人もいるかもしれない。
「自分」の存在を社会に置くことの意味、と考えることもできる。
単純にコミュニケーションに関する話と捉えたっていい。
近未来の話だと想像してSF作品として観る手もありだ。
『フィクション・シティー』しか観てない僕が偉そうに言えることではないのだが、それでもなんとなく、作・演出の山田由梨はその曖昧さこそを大切にしているように感じる。
大きな物語や関係性が消えた後の芝居
だから、これから書くことは、作品についてのようでありつつ、じつはあくまでも「僕個人」が感じたことだ。
僕がこのお芝居を観て真っ先に感じたのは、現代の演劇において大きな物語や大きな関係性はもはや意味を持たないのだということだった。
僕は夢の遊眠社や第三舞台がまだバリバリに芝居を打っていた頃に初めて小劇場のお芝居というものに触れた。そこで演じられていたのは、大きな物語であり、相関図を描けるような大きな関係性だった。
もちろん、その中にも現代に通じるような個々のテーマは入っていたのだが、それでも器は大きく、それがケレン味であり、また主題でもあった(いまでもそういうお芝居自体は存在するし、上演されてもいる)。
その後、小劇場のお芝居が大きな物語を失っていく様子は、傍から見ていてもよくわかった。本谷有希子は関係性を極端に凝縮させ「自我」まで突き詰めて物語を語ったし、三浦大輔は極限状態の関係性にこだわり物語自体を捨てた。岡田利規や長塚圭史もそうだ。小劇場の最先端には、もはや大きな物語や関係性は必要とされなかった。これは、劇団が解体され、プロデュース公演が主流になるのと無関係ではないだろう。
小さな関係は他の関係性と関わらない
そういう意味では『ミクスチュア』が大きな物語と関係性を持っていないのは当たり前なのだ。ただ、このお芝居は単に「小さな関係性」を描くところで止まらなかった。
大学院生の男子二人。野生動物を保護したいと願う主婦(?)と極端な思想で食事を取らないと決めたモデル。うつ病を抱える男子。恋人でもなく友人でもない清掃員の男女。ここで描かれる小さな関係性はこの四つだ。
関係性の中にいる彼らは、その小さな関係性に埋もれ、外の関係性と関わろうとはしない。むしろ、それをしようとする姿はこのお芝居の中では異質に見える。
例えば、モデルの女性は清掃員モノ(男子)の姉という設定だが、彼女はモノとヤエ(女子)の関係性に興味があるような振りをしつつも、そこに踏み込むことは一切ない。
また、大学院生の男子の一人はヤエに興味を示して話しかけるが、ヤエはそれをあからさまに拒絶する。
関係性はあくまでも単体でしか存在しないことが前提なのだ。しかし、それは固い絆でもなんでもなく、脆くあっさりと壊れてしまうものだということも、全員がじつは自覚している。わかりながらも、それでも守っている。心のどこかでほかとつながることを願いつつ、だ。
突然現れる異質な存在とその後
そんな中で現れるのが謎の野生の動物だ。彼らが現れることで、四つの小さな関係性は「対野生動物」という姿勢で、無理やりに別の関係性にぶち込まれる。共通する問題を抱える、大きな関係性にだ。面白いのはこの動物もやはり二匹で、ひとつの小さな関係性である(だろう)ということだ。
図らずも大きな関係性となってしまった彼らは、元の関係性に戻るために行動を起こす。それは成功し、一見、元の関係性に戻ったようにも見える。しかし、それはもうすでに元の関係性ではない。
「関係性が壊れる」ことを肌で知ってしまった彼らには、いまさら素知らぬ顔をして元の小さな関係性を演じることなどできっこない。
それは大きな関係性に直接関わらなかった、清掃員のモノとヤエも同じだ。二人は事件を目撃することで自分たちの関係性を見つめなおし、新たに別の関係性を築こうと努力をはじめる(このシーンがとてもいい)。
小さな関係性はどこへと向かうのか
「小さな関係性」すら築けなくなった彼らが最後に行きつく先はどこなのだろう?
お芝居はそれを明示してはいない。ただ、ヒントはある。最後に出てくるヨガのシーンがそれだ。
芝居の最初は、それぞれの関係性を結ぶ同士の二人(うつ病の男の子は一人)が同じ会話をしながら舞台を掃除するシーンから始まる。ブラックライトに照らされて、闇の中に浮かび上がる「関係性」は、それぞれが同質なものであり、それゆえに交わらないことを暗示する。その後、ヨガのシーンがはじまり、先生の声の下、それぞれが自分のヨガを体験する。ただし、この時の最後のポーズは全員が同じだ。そこから「関係性」が明示され、話は進む。
そしてラストシーン。ここもヨガだ。最初と同じように、先生の声の下、それぞれがそれぞれのヨガを体験する。だが、最後のポーズは全員が違う。関係性はここでは「小さな」を超え、もはや「個」として完結してしまう。それが交わるものなのか交わらないものなのかは不明なまま、舞台は幕を閉じる。
矛盾した関係性だからこそ見える可能性
ここから先はさらに僕の妄想が入る。贅沢貧乏はいまどき珍しく「劇団」であることにこだわっている。これを関係性と捉えるのは自然だろう。そして、関係性は絶対なものではない、とおそらく作・演出の山田由梨は知っている。
恋愛も結婚も友情もすべて「小さな関係性」である。価値観の多様化などという言葉を持ち出すまでもない。いま、僕らはこの小さな関係性しか築けない時代にいる。そして、関係性は絶対なものではない、とおそらく僕らは知っている。
それでも「劇団」であろうとする姿勢、それでも「小さな関係性」であろうとする姿勢。最終的な関係性が「個」でしかあり得ないとするならば、それは矛盾している行為でしかない。しかし、それがわかったうえでなお、関係性を結ぼうとしてしまうのが、人間なのではないか。人間の持つ本質的な魅力、あるいは業なのではないのか。
あくまでも個人的にだが、小劇場の最大の魅力は「その先へ」を見せてくれるところにあると思っている。演劇の可能性の場合もあるし、役者の魅力の引き出し方の場合もある。物語の可能性の場合だってある。
でも、どんな場合でも「その先へ」を見せてくれる舞台は、いつも説明のつかない「観たことのない」舞台だ。
『ミクスチュア』は、僕にとってはそんな舞台だった。無理に言葉で説明しようとしてここまでの長文になってしまったけれど、突き詰めて言うなら本当はとても簡単なことなのだ。
今日体験したあの舞台は、間違いなく最高に面白い「未体験の舞台」だった。
まだ、興奮が収まらない。
終わりに
仕事以外でこんなに長く真面目に文章を書くのは久しぶりだったので、自分でも結構、驚いています。なんかね、語りたくなる舞台なんですよ。
もちろん、ここに書いたのは、最初に言ったように「僕の個人的な感想」であって、それ以上のものではありません。全然違うことを感じる人もいるだろうし、作者の山田由梨さんが違うことを考えている可能性だって十分にあります。というか、たぶん違うことを考えているだろうという気もします。
ただ、こんな感じで受け止める人もいるんだってことが伝わればいいかなぁと。
今後の贅沢貧乏も見守っていきたいです。